てぃーてらす☆おちゃっこは、ケアする人が自分の気持ちを語り、誰かの思いを聴く場という一面を持っています。
自分の思いを語ることで、自分の中に何らかの発見があるのではないかと、私は思っています。
例えば、”千葉県がんピアサポート”。私もピアサポートとして参加することがあります。
ピア(仲間=がん体験者)として、参加者の思いを聴き、参加者が自分の思いを語る。時には、涙を流される方もいらっしゃいます。ピアサポートでは、参加者が語るだけでなく、私達も自分のがん体験を語ります。すると、その語りに自分と同じ思いがあることに気づいた参加者の表情が和らぐことがあります。ピアの語りに「私だけじゃないんだ」と、孤独な思いから少し解放されたのではないかと思います。また、病気や治療の向き合い方についても「今までは〇〇だったけど、△△というとらえ方もできるんですね」と前向きな言葉が聞かれることもあります。
そんなことを思い出しながら「語り直す」ということについて、改めて調べてみました。
広島大学 学術情報リポジトリというサイトに、「語り直す力」を育てる文学教育 : 「語り」から「語り直し」へ、という論文がありました。
そこに、・・・(以下、論文より抜粋)
医者は「死」や「病気」について生物学的な現象,つまり,だれにでも当てはまる「普遍的な」枠組みの『病気や死』のみから捉えようとしてきた。しかし,個別の『病気や死』つまり,その出来事をその人にとっての意味ある状況として理解できる必要がある。そのためには,「物語を聴き取る力」「物語を受け取る力」を必要とする。このような「聴き手」の必要性がナラティブに注目させていると考えられる。このような「聴き手」の必要性は医療現場だけではない。教育現場,福祉現場,さらに家庭での親子,友人等,今,様々な場で必要とされている。聴き手の不在が,「語ろうとしても聴いてもらえなかった物語」や「聴いてもらえない,語らせてもらえない物語」を生み出し,人間関係を希薄にしている。今,すべての人に他者の物語を「聴き取る力」が求められていると言える。・・・(抜粋終わり)
また、語り直しの場においての平等性の必要についても論じられています。
金平糖では、専門職や患者・当事者・家族、そして、地域の人々が、同じテーブルにつく平らな関係を大切にしています。
が、それは口で言うほど簡単ではないことも実感しています。
ピアサポートの場においても同様です。聴くだけではなく、熱心なあまり、ついつい「何かしてあげなければ、教えてあげなければ」という気持ちが大きくなってしまうことがあります。
ケアする人たちや日々生きづらさを感じている人たちが、自分の物語を語る場としての「おちゃっこ☆てぃーてらす」
メンバーそれぞれに病や介護、看取りの経験者です。
が、「語り直し」や「聞き取る」ということについて、みんなで少しずつ勉強できたらいいな~
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